家庭科の授業で、鰯(いわし)の手開きをする訳とは・・・
明日、次女が通う中学校の家庭科の授業で、
鰯の手開きの試験があるので、今夜は、
その最終チェックをしてあげることにしました。
鰯は、『鰯の丸煮』に使うもので、この課題を知った時に、何本か冷凍しておいた真鰯です。
頭を取り、
水洗いをしてから、
開くのですが、
今日で3回目ということで、
開き終えた鰯は、このような状態で、何点もらえるのやら・・・。
ところで、この課題を知った時、自分が思ったのは、「何故、家庭科の授業で、鰯の手開きをするのか?」ということでした。
娘の教科書を開くと、
鰯を使った料理として、
かば焼きと、
つみれ汁が載っており、これらの下に、
手開きの方法が載っていました。
実を言うと、自分は、娘に教えるまで、手開きをしたことがありませんし、これまで、その必要性がなかったというのが、正確かもしれません。
なぜなら、包丁を使った方が早いし、きれいに仕上がるからです。
手開きをしても、腹骨を取るには、包丁でなければ、出来ないことを考えると、手開きは、無意味な仕事でしかありません。
さらに言うと、人間の体温で、鰯を持てば、鮮度は否が応でも、落ちるわけで、その点でも、無意味です。
また、料理の基本は、包丁を使うことですから、それなくして、手開きをするのも、無意味です。
包丁の使い方を覚えるのに、基本が何なのかは言えませんが、キャベツの千切り、葱の小口切りなどが、それにあたり、これらが出来れば、一般の方なら十分と言えます。
最近では、スーパーの鮮魚売場では、魚を卸してくれるので、その方が、片付けの点でも、ずっと効率的です。
魚を卸すには、出刃包丁が必要ですし、それを使う頻度を考えると、家庭で魚を卸すことほど、非効率であるのは、言うまでもありません。
家庭科の担当の先生というより、教科書の著者である方達は、何をもって、鰯の手開きを教科書に載せたのでしょう?
これら以外にも、鰯を扱うことへの疑問があります。
料理が出来ない中学生に、鰯の手開きをさせ、ボロボロにしてしまうことは、或る意味、食材への冒涜としか思えません。
少なくとも、娘が開いたボロボロの身を見て、
料理をする気にはなれません。
また、鰯を手に入れるには、漁師の人達が獲ってくれるからで、時化の時などは、命がけで漁をしているのです。
彼らが、そんな鰯を見たら、どう思うのか、想像に難くありませんし、自ら魚市場に通い、懇意にしている漁師の方も何人かいて、それを思うと、気の毒でなりません。
少なくとも、自分の作った料理が、残されたり、ぞんざいに扱われたら、嘆かわしいのは、言うまでもありません。
どんな食材でも、一次産業である水産業、農業、畜産業などの産物である以上、粗末に扱うことだけは、料理人として、許すことが出来ないのです。
さらに言えば、一次産業なくして、食というものはあり得ないのです。
命ある鰯が、ボロボロにされ、美味しく食べてもらえなければ、鰯も浮かばれません。
ご存じのように、人間は、他の命を頂いて、自らの命を成り立たせる罪深い生き物で、そうである以上、食材を粗末にすることは、許されることではないのです。
命を頂くからこそ、食事の前に、「いただきます。」と言うのであって、作ってもらった人や、もてなしてくれる人への言葉ではありません。
家庭科という授業が、どのような意図があるのかは、全く分かりませんが、少なくとも、実生活に役立てるようなことを取り上げて欲しい限りで、授業のための授業でなくなって欲しい限りです。
腹骨は包丁で削げても、中骨は残っちゃいますから、手開きで背骨ごと抜けば腹骨も中骨も綺麗に身から取れますよ。
とど様
ご指導、有難うございます♬